勝又英樹プロフィール
1980年 宮城県生まれ、埼玉県草加市育ち 中学校からバスケットをはじめ、名門・京北高校(東京)から 東海大学に 2003年に卒業後は、新潟アルビレックスに入団 bjリーグ発足とともに東京アパッチと契約 URL:http://www.apache5.com/
バスケットとの出会い
- のっぽくん
- それではバスケットとの出会いについて教えてください。
- 勝又さん
- 「小学校のときから身長が大きかったので、市のバスケット大会の選手に選ばれたのが最初です。ただ、その大会後、ミニバスケット部に入らないかと、先生に誘われたんですが、運動が嫌いだったので断ったんです。」
- のっぽくん
- 運動が嫌いだった?
- 勝又さん
- 「動き回っているのは好きでしたが、枠にはめられた運動というのはだめでしたね。本格的にバスケットをやり出したのは中学校に入ってから。入学する前から、担任が、すごく怖い先生だと噂されていたんです。しかも、その先生がバスケの顧問。入学式のときに「お前はバスケ部な」と言われて、そのまま(笑)。嫌々はじめたのが、バスケットとの出会いですね。」
- のっぽくん
- そのときの身長は?
- 勝又さん
- 「中学1年生で180cmちょっとでした。」
- のっぽくん
- 枠にはめられるのが、イヤだというのは?
- 勝又さん
- 「たとえば、バスケットでいうと、スリーポイントラインがありますよね。でも、そのラインから、1~2m離れても、ゴールできるなら“イイじゃん”というタイプの人間なんです。とにかく、先生がこうしろ、あーしろというのが、イヤでした。」
- のっぽくん
- それでは中学では、あまり真剣にバスケットをしていなかった?
- 勝又さん
- 「持久力もなかったので、最初は、とにかくつらかっただけですね。あるとき、そのキャプテンから“お前なんか、ついてこれねえよ”と言われたんです。たぶん、僕の練習態度を見かねて叱ったのでしょう。それなら「やってやろうじゃねえか」と思ったのが、燃え出したきっかけ。コーチの話に耳を傾け、上手い先輩のプレイを盗むようになりました。また当時マンガの『スラムダンク』が流行りはじめたころで、それを真似して“光るプレイをしてやろうじゃねえか”と・・・・。」
- のっぽくん
- そのキャプテンの一言がなかったら、そのままだった?
- 勝又さん
- 「そうですね。そのキャプテンが兄の友達で、僕のことを小さい時から知っていたんです。だから、性格もわかっていたんでしょう。とにかくバスケットをやる前に、半年ほど剣道をしたことがありますが、足が冷たくて辞めてしまったくらい・・・。何ごとも、あまり燃えないというか、強制されるのは嫌いだったんです。」
- のっぽくん
- 高校は名門の京北高校(東京都)に進学されたわけですが、中学時代とは変りましたか?
- 勝又さん
- 「違いましたね。キャプテンの一言から奮起して、中学3年のときには、1試合で30~40点を僕1人で取っていましたから。チームを引っ張るくらいにはなっていたんですよね。ただ、どちらかというと中学校のときは、バスケットはドリブルで相手を抜く、とか、ディフェンスで相手のパスをカットするなど『スラムダンク』でいう、光るようなプレイが楽しいというか・・・・・・。
それが全否定されましたからね。“オレがやってきたバスケットは、バスケットじゃないんだ”と」 - のっぽくん
- なるほど個人技でなんとかなると思っていたわけですね。それが井の中の蛙、大海を知る、わけですね。
- 勝又さん
- 「高校入学当時、身長が191cmほど。まあ、できるかなと思っていたんですけど、ダメでしたね。 たとえば、同学年に186cmほどのヤツがいたんです。まあ“身長もオレの方が高いから、たいしたことないな”と、思っていたら、そいつのプレイがすごいんです。頭も切れるし。そいつのことをコーチに聞いたら、中学の全国大会で準優勝したチームの選手だと。もう、全然、違いましたね。僕なんか全然ダメ(笑)。僕が中学までやっていたのはバスケットのホンの一部分。もっと頭を使うスポーツなんだと実感しましたね。」
- のっぽくん
- でも新しい世界に出会えた。希望を持てたわけですよね。
- 勝又さん
- 「そうですね。運良く、身体能力を買われて、高1から試合に出させてもらったので、得るものが多かったですね。」
- のっぽくん
- ちょうど田臥勇太選手(日本初のNBAプレイヤー)と同学年ですね。そんな意味でも、いろいろ刺激はありましたか?
- 勝又さん
- 「たしかに全日本ジュニアの合宿に出て、田臥たちと知りあったのも大きいですね。それまでは、中学、高校と、二人の先生からの指導を受けていましたが、合宿にいくと、いろんなコーチがいます。
そこで練習法、考え方など、教えてもらい、どんどん広がって、というか、それを追い求めたくなりました。もちろん、田臥のような刺激を与えてくれる選手と出会えたことは大きかったと思います。」
- のっぽくん
- 高校時代の成績でいうと1~2年はインターハイには出場できなかった。そして3年では出場しベスト8まで勝ち進んだ。もう中学時代の“勝又選手のチーム”ではなかったですか?
- 勝又さん
- 「チームで勝つことのおもしろさを大事にしていました。」
- のっぽくん
- チーム競技では、どういうことを大事にしていましたか?
- 勝又さん
- 「漠然としていますが“素直な気持ち”ということを大事にしていました。素直にならないと、実際、みえない部分も出てくるし・・・・・・。」
- のっぽくん
- 何かの体験が、そういう思いにさせたのですか?
- 勝又さん
- 「1年生のときからスタメンに出ていたこともあり、調子に乗って自分のミスを他人のせいにしたりしたこともあったんです。そんなときはコーチから“お前、天狗になっている!”と、鼻をへし折られたことが、3年間で2~3回はありましたね。また、高校のときは、一軍、二軍のように、AチームとBチームがあって、実力があるのにBチームから、はい上がれないヤツがいたんですよ。そいつのことを、いくら仲間が励ましても“いいよいいよ、オレは辞めるから”と、突っぱねるんです。 だけど、みんなで説得し続けたら、そいつが気持ちを入れ替えて、あっという間に上手くなって、Aチームに上がってきたんです。そんな姿を見ると、気持ちって大事だなと。落ち着いて素直になると、見えない部分も見えるようになるのかなと。」
- のっぽくん
- 謙虚さ、という姿勢ですよね。そこには両親のしつけもあるのでは?
- 勝又さん
- 「どうでしょう。ただ、小さいときから、いろいろ自分で考えさせられましたね。例えば、買い食いをして晩飯が食べられなかったときも、ただ叱られるのではなく、ゴハンを食べることがわかっているのに、なぜその前に買い食いをするんだ、ということを注意されました。もっと想像しろということですからね。そんな自分で考えるクセが付いていたことは、影響しているのかもしれません。」
- のっぽくん
- 素直な気持ちというのは、スポーツ選手には共通していますね。勝又選手も高校時代に全日本ジュニアの合宿に行って、他の選手やコーチから、さまざま吸収したのは、やはり、素直な気持ちがあったからでしょう。
- 勝又さん
- 「もう自分はこれでいいんだと思ってしまうと、たぶん、そこまでだと思うんです。素直な気持ちというか、もっと上手くなりたい、もっと吸収したいと思ったら、天狗では無理ですね。」
インタビュー目次
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