岡崎朋美プロフィール
1971年 北海道斜里郡清里町の酪農一家にて生まれる 1980年 スケートを始める 1994年 リレハンメルオリンピック出場 1998年 長野オリンピック出場 銅メダル獲得 2002年 ソルトレイクシティオリンピック出場 2006年 トリノオリンピック出場 マイペースがモットー。常に限界を考えず、5度目のオリンピック出場を目指して、現在もトレーニングに励んでいる。
スケートにのめり込む小・中時代
岡崎選手の地元、清里町では、毎年冬になると、町民総出でスケートリンクを作っている。小学生たちは、そこで、思い思いにスケートを滑っていた。
岡崎選手も、そんな生徒の1人だった。スケート部に所属したとはいえ、指導者といっても素人集団の保護者がそれをつとめる少年団のスケートチームに過ぎなかった。
しかし、
「ちょうど朋の同級生のお父さんが、それまでと違い、とても熱心に指導してくれたんです。それまでの少年団の練習と違って、毎日、夜遅くまでやっていましたね。朋もその練習に、休むことなく必死についていっていましたね」(イセノさん)
その当時のコーチ、藤田二郎さんは、かつて雑誌の取材でこう語っていた。
「彼女は長距離走が苦手でしたね。朝練で3キロ走をやると、1キロくらいまではみんなについていくんですが、そのあとは遅れてしまうんです。僕が自転車に乗って伴走していましたが、下を向いて走っている。泣き顔を見せないように下を向いているんです。
でも、泣いた次の日も一番に練習にやってきて、ニコニコしていました。あの笑顔はいまも変らないですね」
練習は、コーチの藤田さんの仕事のあと。そのため練習が終わるのは、夜9時すぎになることもあったという。冬場には-20度まで気温が下るリンクでは、生徒の母親たちが見守っていたという。
「お母さんたちが、石炭ストーブを焚いて、牛乳を沸かしたり、甘酒を飲ませたり、そっちも大変でした。私は仕事があったから、毎日は行けませんでしたが、朋がかわいそうだからと、お父さんに許可をもらって、ついていたことも何度かありました。
朋が恵まれていたのは、普通、小学校時代は、熱心にスケートをしても、中学校に上がると、指導するコーチがいなくて、みんなスケートから離れていくんです。でも藤田さんが、中学校まで朋たちを面倒みてくれたんです」 と、イセノさんが語る。
岡崎選手の小学校、中学校時代のスケートの成績は、今の活躍に比べると、それほどでもない。スケート部のなかでも、岡崎選手より速い選手がいたくらいだったという。
なぜ、ここまで続けられたのだろうか。元さんが語る。
「普段から、顔には一切、出さないけど、本人は相当の負けず嫌い。人に負けると、心のなかが沸々としている。クラスの駆けっこでさえ負けると、悔しさを表に出さずに、グーッと我慢するタイプですからね。小、中と、いくら頑張っても、同じ少年団には速い選手がいた。それが、スケートを続けさせたんでしょう。
一度だけ、まだ朋がスケートにやっと乗れたころだったと思いますが、車で送っていったときに“スケート辞める”と言ったことがありました。そのころ、みんなは上手に滑られるのに、本人は習い始めで、ついていくのが辛かったんでしょう。車から降りないと、言い出したんです。
しばらくして、それなら帰るぞ、というと、自分でも納得したんでしょうか、やっぱりやるといって、元気でリンクに向かっていきました。
弱音というのは、それが唯一。あとは練習行かないなんて、聞いたことがなかったですね」
ただ、岡崎選手はスケートだけの小、中学時代ということでもない。実際、中学時代の親友は、当時、岡崎選手がスケートをしていることさえ、知らなかったという。
「そのあたりのメリハリはあるんですよね。スケートの練習は、とても辛かったと思いますよ。でも練習が終わったら、ケロッとしている。その切り替えが上手でしたね。
小学校から今までスケートを続けていても、嫌いにならないというのは、その切り替えの上手さがあるんじゃないかと思っています」(元さん)
インタビュー目次
おすすめインタビューBEST5
-
サッカーワールドカップ日本代表 福西崇史さん
スポーツだったら、姿勢だったり、体幹だったり。何にしても基本が大事。
-
杉山愛さんの母・杉山芙沙子さん
コミュニケーションとは、人の空気を読んだり、観察をしたり、判断したりする力が必要になってきますよね。
-
10代目体操のお兄さん・佐藤弘道さん
遊び心を忘れない大人になって欲しいです。子どもが男の子だから…
-
サッカー日本女子代表・宮間あやさん
日々サッカーを楽しめたらいいなと思ってやっています。
-
天才セッター・中田久美さん
小さい頃にバランスの取れた食生活をすることが、アスリートにとって非常に重要だと思います。