大場満郎プロフィール
1953年 山形県最上町で農家の長男として生まれ、29歳まで農業に従事。 冒険旅行を兼ねてアマゾン河6000kmを筏で下り、その後世界で初めて、北極・南極 両極単独歩行横断を果たした。 1999年 植村直己冒険賞 受賞 2001年 夢だった「アースアカデミー・大場満郎冒険学校」スタート。 現在も、子供たちに人間本来の豊かな生き方を提案し続けている。
人生を変えた出会い 最後の鷹匠
冒険家・大場満郎さんの原点は、名湯・赤倉温泉や、清流・絹出川が流れる、この山形県最上町。夏は鮎釣りやキャンプ、冬はスキーが楽しめる、自然豊かな人口一万人ほどの小さな町で 彼はどんな少年時代を過ごしたのだろうか。大場さんが感傷に浸るように思い出を語ってくれた。
「生まれも育ちも、この最上町で、両親、祖父母、姉と弟の7人家族でした。この辺は、ほとんどの人が農家で、うちもやっぱり農業に携わっていて“家の手伝いをしていればそれで良い”という環境でした。
ところが冬になるとこの地域は、2mほどの積雪がある豪雪地帯で、とても農業はできません。農家の人は、車や農機具、家などで、かなり借金をしていて、夏場の農業だけでは生活できないから、働き手の男はみんな雪が積もると都会の方に出稼ぎに行くのが当たり前でした」
普通の農家に生まれた大場さんが、冒険家を目指したのには、 一つの出会いがあった。
「中学2年のとき、同じ最上郡の真室川町に住んで、鷹匠をしていた沓沢朝治さんという“じっちゃん”に会いました。鷹を操りウサギやタヌキを狩る生活を見て“自分もこうしたい”と憧れたんです」
人生を左右する出会い。『老人と鷹』というカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した作品のモデルにもなった、日本最後の鷹匠・沓沢朝治さんから何を感じたのだろうか?
「沓沢さんの、やりたいことをして、目を輝かせている生活が、すごく楽しそうで、“俺もこんな風に、自由に生きてみたい”と。中学2年の多感な時期だから、そんな生き方が素直に心に入ってくるんです。“生きる”というのは、本当はこういう事なんだと思い、それ以来、周りのやっていることが全部嘘っぱちに見えてきました。その一つが、冬になるとみんな行きたくもないのに家を離れ、都会に出稼ぎに行く生活でした。
その後、俺も何年かは親父と一緒に出稼ぎに行きましたが、やはり沓沢さんのような自由な生活が忘れられませんでした。ただ、出稼ぎに行きたくないと言っても、それと同じくらい家にお金を入れなくては、誰も認めてくれません。そこで無添加のエサでニワトリを育てて、安全な卵を売る養鶏場をはじめたんです。その商売はなんとか成功したのですが…」
理想の暮らしを手にしたように見えた大場さん。しかし、そこから日本独特の閉鎖的な村社会が大きな壁となった。
「俺のように、変わったことやると、周りに叩かれてしまう時代。みんな自分を押し殺して生きる “恥の文化”が、村には あったんです。自分だけが成功するのではなく、俺はみんなが堂々と生きていける村にしたかった。きっとその方が面白いと 思ったんです。
しかし、そこで家族や社会の考えとズレが大きくなってきました。出稼ぎも行かず、周りの人と違うことをしている。自分で考えてやっていることだけど、なかなか周囲の人には、認めてもらえません。自分の考えに正直に生きようとしていたから、そこで衝突したんです。
それで、親族会議の末、29歳で村を飛び出すことに。こんな閉鎖的な村にいて、白い目で見られるよりも、世界の色んな人の生き方を見て、自分の今後を決めようと思いました。それが冒険の始まりです」
ついに、故郷を飛び出してしまった大場さん。
インタビュー目次
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