宮里藍プロフィール
この村ではシンボル的な人気者
( Photo by (c)Tomo.Yun )(http://www.yunphoto.net)
宮里藍が生まれ育った沖縄県・東村。
そこを訪れた時は、厚い雲が空を覆う、風の強い冬の日だった。
といっても、東京からやってきた者にとっては、ほんの少し肌寒い程度。夏物のジャケットを着ていれば、しのぐことができた。それでも時おり見かける村の人たちは、太平洋から吹きつける“冬の風”に背中を丸め、足早に走っていく。
それでも「藍ちゃんについて取材をしているんですが」と声をかけると、村民だれもが、足をとめ、真夏の太陽のような笑みをみせる。
「藍ちゃんなら知っているよ。いっちゅも、ハエしていた」(いつも走っていた)」
と、懐かしがる老人もいる。
すれちがった小学生は、
「藍ちゃんなら、この前、学校へ来たよ」
と、自慢げに語る。
そして、共通するのが、
「テレビと同じさ。いつもニコニコして、明るくて」
そう、いまや宮里藍は、この村ではシンボル的な存在である。
また、宮里家も東村の中心的な家となっている。
しかし、今から14年前に起こった、あることになると、村民の口が重くなる。
91年4月21日──。
この日、東村では、村長選挙の投票が行われた。
村長選挙で、惜しくも落選したのは、地元の若者たちに担ぎ出されて出馬した宮里藍の父親・優さんだった。
「それまで公務員だった優さんが、それまでの村政停滞に不満を持っていた若い人に担がれて、仕事を辞めて出馬した。選挙は僅差でした。でも、ある意味、狭い村を二分するものでしたから、負けた方は辛いですよ。それまでの仲間も翌日から、そっぽ向いてしまうくらい。そうしないと生きていけないから。
だから、村八分。その言葉通り。仕事辞めたから、優さん、無職でしょ。一度、会社に就職できたと聞いたけど、政敵スポンサーのゼネコンから圧力がかけられて、結局、ダメみたいでした」(優さんの友人)
人口2000人に満たない村での選挙。そのシコリは大きかった。
落選から宮里家は、どん底の生活に。失職した優さんは、沖縄県中、仕事を探して駆け回ったが、何度となく妨害が入り、定職につけないでいた。収入は公務員の宮里藍の母親・豊子さんの収入だけという生活が続いた。
宮里藍が6歳のとき。赤土のグランド、風の強い砂浜でボールを打ち込み、どんどんゴルフの魅力にのめり込んでいた。
この取材をするまで、宮里藍は、経済的豊かな家に生まれ、なんの苦労もせずゴルフをしてきたと思っていた。小学生の小遣いでは手が届かないゴルフ用品、プレイフィー……。そんな印象を強くしていた。
しかし、父・優さんは、こう語っていた。
『ゴルフは金持ちのスポーツではありません。うちでは藍が幼いころ、庭に芝を植え、夜になると明かりを灯して、家族で楽しみました。ゴルフが強くなるには、まずゴルフが好きになり、楽しむことを覚えるのが大切です』(サンデー毎日2003年12月23日)
貯金ゼロ。ギリギリの生活で、自殺を考えたこともあるという父・優さんは、2年間の浪人生活を経て、ゴルフ練習場のレッスンプロとして再出発することができた。
そして、父親がレッスンプロになると、自宅から30分以上も離れた、そのゴルフ練習場に通い、さらにゴルフに打ち込んでいった宮里藍。
「優さんは、村のひどい仕打ちをジッと我慢して、そのハングリー精神で、ここまで来た。それは村にも恨みがあるかもしれないけど、一言も文句を言わない。
藍ちゃんも幼いながら、両親の苦労した姿を見て、自分がなんとかするんだ、という思いが強いのでしょう。ある意味、今の藍ちゃんの活躍は、選挙の落選があったからだといっても、おかしくないでしょう」(前出・優さんの友人)
インタビュー目次
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