有森裕子プロフィール
1966年 岡山県生まれ 1988年 日本体育大学を卒業後、(株)リクルートに入社 1992年 バルセロナ五輪で銀メダル 1996年 アトランタ五輪で銅メダル 1998年 NPO「ハート・オブ・ゴールド」設立 2002年 アスリートのマネジメント会社「ライツ」設立 現在、国連人口基金親善大使、日本陸連女性委員会特別委員などを務め、国際活動にも積極的に参加している その後、後輩の指導や講演など、様々な分野で活躍中!
目標を持つきっかけ
何かをするなら、必ず目標を持つこと。その目標は、高いところではなく、自分の身の丈にあった高さに置き、そこに向かって、一歩ずつ進んでいくことか大切だと語る母・広子さん。有森裕子さんがその目標を見つけたのは、小学校4年生のときだった。
「飛びぬけたもののなかった裕子に、陸上部の顧問の先生が『有森は一生懸命走るんだなぁ』と声を掛けてくれたそうです。それまで、ほとんど誉められることがなかった裕子にとって、とても感動した言葉だったようです。その後、中学校の運動会でも800m走で優勝し、級友に喜んでもらえ、走ることで自分の存在意義を見つけられたのだと思います」
だが、進学した中学校の陸上部は廃部寸前であったため、バスケットボール部に所属した裕子さん。そこでは、厳しい指導もあったようだが、その間も、ほとんど口出しをしなかったと父・茂夫さんは語る。
「自分で決めたことだから、自分で責任を持てとだけ言いました。あとは一切干渉せず、試合も見に行ったことがありませんでした」
良い指導者との出会い
晴れて高校生になり、陸上部に入部した裕子さん。中・長距離を専攻していたが、目立った記録はまったく無かったという。しかし、自分に妥協せず、目標に向かう裕子さんに、転機が訪れたのは、高校3年生のとき。陸上部の顧問の先生が、日本体育大学に推薦したいと言ってきた。
「優れた記録もなかったので、正直半信半疑でした。理由を伺うと、先生は『強いだけでは、スポーツはダメ。精神的な強さも必要なのです。このまま芽がでないかも知れませんが、4年間大学で走らせてあげたい』とおっしゃってくれました」(広子さん)
一度も練習をサボることなく、黙々と自分のやれることをやってきた裕子さんを、正しく見ていた人がいた。大学でも、優れた結果は出なかったが、その後リクルートに入社し、マラソンに転向した有森さんは、小出監督と共にオリンピックの舞台に立つまでに至った。
目標に向かい常に努力をし続ける。結果が出ないなかで、それを続けることは非常に難しいことだ。 彼女の本当の才能は、走ることではなく、努力を続けることができる精神力ではないだろうか。その才能を伸ばしたのが、ご両親との規則正しい生活であったことはいうまでもない。
インタビュー目次
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