中田久美
1965年 東京都生まれ 1979年 全日本女子バレー元監督の山田重雄氏が開設した「山田バレー塾」に合格 1980年 全日本選抜デビュー 1984年 ロサンゼルスオリンピック出場 銅メダルを獲得 1988年 ソウルオリンピック出場 第4位 1992年 バルセロナオリンピック出場 第5位 1992年 11月現役引退 その後、後輩の指導や講演など、様々な分野で活躍中!
長続きしなかった習い事
活発で、日が暮れるまで友達と遊んでいたという中田さん。
小学校時代は様々なスポーツを経験していたようだ。
「水泳を習い始めたのが習い事の最初です。両親は、私がやりたいということに対して反対しませんでした。強制的にやらされることもなくて、興味を持ったことには後押しをしてくれました。」
友達や親戚がやっていて興味を持つことが多かったという中田さんは、水泳、テニス、バスケットから、塾やそろばんまで、習い事は多種にわたっている。しかし意外なことに、どの習い事もあまり長続きしなかった。飽きたり、練習が苦しかったりで、すぐにやめてしまったのだという。
そんな彼女が、バレーボールに出会い、夢中になっていったきっかけは何だったのだろうか。
最初の出会いは母親の“ママさんバレー”
彼女がバレーボールと出会ったのは幼稚園の頃。母親のやっていたママさんバレーについていった時だという。
「でもその頃はボールを拾ったり、皆が休憩しているときに、ボールを貸してもらって、見よう見まねでサーブを打つ真似事をしていたりと、教えてもらっていたことはなかったんです。」
彼女が本格的にバレーを始めたのは、中学校のクラブ活動からだ。
中学の部活で始めたバレー
小学校に入るときには、周りの子より頭一つ大きかったという中田さん。
「中学一年のときの担任の先生がバスケットボールの監督で、背も大きかったし、先生からは『お前は絶対にバスケットをやるべきだ』と言われました。」
バスケットを勧められた中田さんがバレーボールを始めたのは、母親の一言がきっかけだという。
「母親に相談したときに『バスケットよりは、バレーの方が楽しいんじゃないの』と言われたんです。確かにバレーボールは昔から知っていましたし、ちょうど“アタックNo.1”が流行っていたので、鮎原こずえを目指そうかなとおもっちゃったんですよ。」
しかし、中学でのクラブ活動は彼女が思っていたものとは違っていたという。何か物足りないものを感じていた中田さんは、もっと真剣にバレーに取り組める環境を求めていたのだ。
人生を大きく変えた一冊
そんな中田さんのもとに部活の監督が持ってきた一冊の雑誌。それは彼女の人生を大きく変えるものになった。
「バレー部の監督が、月刊バレーボールという雑誌を持ってきていました。そこに“山田少女バレー塾”の広告が載っていたんです。」
山田少女バレー塾は、メキシコ、モントリオールオリンピックでメダル獲得に導いた知将・山田重雄さんが、後進の育成のために立ち上げたクラブチームだ。
「それを見た瞬間に“これだ”と思いましたね。自分の求めていたものがここにあると」
この時だけは反対したという両親を、テストだけでも受けさせて欲しいと説得し、合格者わずか7人という入塾テストを受けることになった。
そしてそこには、全国から集まった900人もの受験者と、後に彼女が師と仰ぐ山田重雄氏との運命的な出会いが待っていたのだ。
インタビュー目次
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