中田久美
1965年 東京都生まれ 1979年 全日本女子バレー元監督の山田重雄氏が開設した「山田バレー塾」に合格 1980年 全日本選抜デビュー 1984年 ロサンゼルスオリンピック出場 銅メダルを獲得 1988年 ソウルオリンピック出場 第4位 1992年 バルセロナオリンピック出場 第5位 1992年 11月現役引退 その後、後輩の指導や講演など、様々な分野で活躍中!
基礎体力と熱意が支えた合格
いよいよ山田少女バレー塾の受験の日。
「会場に行ってみたら全国から900人の受験者が集まっていました。驚異でしたよ。その瞬間、“ああ、終わったな。これは私なんかが来るところじゃなかった。”と思いました。小学校からバレーをやっている人たちや、身長も私より高い人が大勢いましたから。」
しかし、幸運にもバレーボールの技術テストはなかったという。
「反復横とび、50m走、ジャンプなどの体力テストと作文だったんです。作文には“絶対入って(山田少女バレー塾に)オリンピックに出るんだ!”と書いていて、後で読み返すと恥ずかしかったですね。」
その時のジャンプテストで、中田さんは900人中トップの成績を収めたという。
「当時は身長が168cmだったんですが、最高到達点が2m86cmでした。その時に山田先生が『凄いね君は』と言ってくれたことを今でも鮮明に覚えてくます。」
しかし、他のテストは目立った成績を残せなかったという中田さん。
「一週間くらいして、母と夕食をとっている時に電話がありまして、母の口から『合格だって』と言われた時は何のことかわからなかったです。落ちたものだと思っていたので、すっかり忘れていたんです。」
晴れて合格した中田さんは、その春休み中に転校。本格的なバレーボール生活を始めることになる。
天才セッターが考える上達のコツとは・・・
山田少女バレー塾での練習はどのようなものだったのだろうか。
「とにかく練習は厳しかったです。夏休みなどは高校バレーの全国大会に出場する学校を相手に毎日何十セットも試合をしました。」
念願だったバレーボールに打ち込める生活を始めた中田さんだた、1日10時間以上におよぶ厳しい練習に、チームメイトの約半分は脱落していったという。
その中で“負けたくない”“絶対に上手くなってやる”という思いで、過酷な練習を乗り越えた中田さんは、誰もが知る“天才セッター”にまで成長を遂げることになる。
「基礎以外は何も教わってないんです。だから自分で研究するしかありませんでした。自分や他の人のプレーをビデオで見たり、普段のコミュニケーションの中でチームメイトの個性を理解して、それを活かす方法を考えたりしましたね。」
小さな頃から“自分で考えて行動する”ことを身に付けていた彼女だからこそ、ここまで成長することができたのだろう。
そして、後に中田さんが所属した日立のバレーボール部は、自分で考えることが伝統のチームだったという。さらには、「考えろ」と指導されることもなかったという。
「私が重要だと思うことは、自分で考えながら練習すること。人の言うことを実行するのも大切ですが、それだけでは不測の事態に対応できないんですよ。」
そう語る中田さんの顔は、ひとつのことをやり遂げた自信に満ち溢れていた。
インタビュー目次
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